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機関紙「日赤労働者」

東京の戦争と平和を歩いてみた〈後〉 全日赤平和ツアー

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東京都慰霊堂

 二日目は早朝、「東京都慰霊堂」がある墨田区の横網公園からスタートしました。ここはもともと、関東大震災の慰霊施設として建てられたもので、園内の「復興記念館」も見学しました。
 その後参加者は、「東京大空襲・戦災資料センター」へ。こちらは、東京には空襲を専門に扱った行政機関のミュージアムがないため、その被害を伝えるために民間の力でつくられたものです。ここでは記録映画を見た後、当時八歳だった二瓶治代さんの生々しい体験談を聞きました。

人は燃えながら走っていた
=二瓶治代さんの証言=

 その時、私は八歳の女の子でした。私の家は五人家族で、江東区亀戸に住んでいました。
 夜の何時ごろだったのか「今日はいつもと違う。起きろっ!」という父の声に、バネ仕掛けのようにはね起きました。真っ暗な中に、空だけが異様に赤かったのを覚えています。
 焼夷弾がザアー、ザアーと雨のように降っていました。人は燃えながら走っていました。負ぶった子どもが背中で燃えているのに、お母さんがそのまま走りつづけていました。両親と私と妹の四人も、火の海の中を駅の方に向かって逃げていきました。私の頭巾にも火がつき、それを取ろうとして父から手を離したとたん、折からの強風にあおられて、私一人が吹き飛ばされてしまいました。どのくらいたったのか、父は私を見つけてくれたのです。私の上に折り重なるようにしていた人のほとんどは死んでいました。

戦争の加害、被害の歴史
両方学ぶことが大事

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世界の子供の平和像
(東京大空襲・戦災資料センター)

 東京大空襲は、油脂性爆弾による都市無差別爆撃でした。燃焼性物質による殺傷は、一八六八年「サンクト・ペテルスブルグ宣言」以来、また、一般市民と文化財の無差別攻撃は、一九〇七年「陸戦の法規慣例に関する条約」以来、人道と良心に反する行為として禁じられていました。日本も中国・重慶市への無差別爆撃、南京大虐殺などを重ねていました。また、米軍もドレスデン大爆撃、広島・長崎原爆も人道に反するものでした。『東京修学旅行ハンドブック〜平和文化より』
 参加者から、「本では読んだりしていましたがやはり現地で説明されると百聞は一見にしかず、一層思い知らされます」との感想が寄せられました。こうした取り組みを継続していくことが重要と考えています。

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